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まず哲学の超大まかな歴史を説明するね。 超大まかにいうと、現在は哲学という学問は存在しません。 もちろん、哲学という言葉も今にあり、哲学者も居るので、正確に言うならば古い意味での哲学は消えて、新しい哲学として残っている。と言ったところです。 その新しい哲学の名前を『現代思想』と言います。現代思想のポイントは"真理の探求"の放棄です。アイドレスの世界に哲学があり、それがリアルに発展するなら、アイドレスの世界でも哲学はここに行き着くでしょう(というか、はじめからアイドレス版現代思想をつくるのが良い) 哲学と現代思想を分けた転換期は第二次世界大戦です。 というのも、真理=正しい絶対的な答えを探ることは、なにか正しい1つだけのものを確信しその真理と自分を重ねて、自分は、自分の行いは完全に正しいのだという答えに結びつくからです。そしてナチスによるユダヤ人虐殺とかが起こるわけです。 それを反省して大戦後の哲学(現代思想)は多様性という言葉を使い始め、他者というものを丁重に扱うようになります。デカルトが唱えた「我思う故に我あり」という〈自分が世界の中心にいる哲学〉からの脱却を目指すのです。 (アイドレスでは、例えば、えっち哲学者巨乳派と貧乳派が互いにそれを真理とすれば、最後は戦争に行き着くはずです。冗談じゃなく「きのこ山たけのこ里戦争」みたいなものは起こるはずです(ルワンダ内戦みたいなことです)。なのでえっち哲学者にも多様性の概念(=真理の放棄)を持たせてこれを回避しましょう) だから現代の哲学は真理という言葉にすら批判的です。 それと重要なことは、哲学者というものは、左翼的であり、反体制的なものです。例えば、真理を目指すということにしたって、それは今の世界に真理が無いこと(発見できていないこと)を意味しているので今を批判することで真理を見つけようとしますし、現代思想でも第二次世界大戦での哲学者たちの苦い経験から政府と距離を取りますし、多様性を掲げるということは、政府(なにかを決定し、区切りを設けるのが仕事)とは反対の行いだからです。 (まぁ現在の哲学者たちはそれをゲーム的にやっていて、政府の行いと、哲学の行いで国の行くすえのバランスを取ろうとしてはいます。両翼ないと鳥は飛べないというやつです) 哲学の歴史みたいな話はここまで。 次に哲学者とエロの話です。 現代思想ではエロいこと、性の話は結構扱います。 (そもそも哲学の祖、古代ギリシャ時代から快楽(セックスとオナニー)いうのは1つの大きな主題(話題)でした) 例えば、SMの語源たる、サディズムの語源は文学者のサドであり、マゾヒズムの語源は文学者のマゾッホです。この二人は現代思想の哲学者に研究されてその著書に度々取り上げられています。哲学者の入門書なんかにもこの二人を哲学者として紹介している本もあります。ドゥルーズという現代思想のスター(といってもすでに死んでいますが)がこの二人の本を書いていて、その本は現代で哲学をする人の必読の本になっています。 現代思想の父親の一人であるフロイトの性への傾向、それに続くユング、ラカン、アドラーの活躍は有名ですね。 またバタイユという哲学者は『エロティシズム』という本で「セックスとは死ぬことだ」という有名な言葉を残していますし、〈太陽肛門〉という概念も作りました。また『眼球譚』というエログロな小説を書いておりこれも必読の本みたくなっています。(こんなんがありました。バタイユの『眼球譚』が変態すぎるので4コマ漫画にしてみた http://blog.chakuriki.net/archives/51230733.html) (日本ではサドやバタイユを紹介し、自身も多数の著作を持っている人として、渋沢龍彦という人がいました) サルトルも相棒のポーボワールと新たな性の関係を築こうとして二人は生涯未婚のまま添い遂げましたし、ポーボワールが書いた『第二の性』はフェミニズムの古典です。 そも哲学者は同性愛者が多く、故に性の話題は大きな問題として扱っています。 日本でも、女体の裸体、というものでは東京芸大教授の伊藤俊治が『裸体の森』という、人々が裸体をどう扱って来たて表現してきたか、という歴史を書いた名著を書いています。 最近では自身がゲイであることを表明している立命館大学准教授の千葉雅也とAV監督の二村ヒトシ、現代美術家の柴田英里が鼎談したのをまとめた『欲望会議』いう本が売れています。 という感じで、哲学、現代思想において性の話題は、その中心の1つになっています。それくらい、えっちについて考えることは哲学の本質なわけです。えっち哲学者=哲学者、みたいな感じです。 えっち哲学者を作る際はこのへんも考えつつ、うまく作りましょう。 [No.504] 2019/06/06(Thu) 22:53:31 |